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Habari za Dar es Salaam No.173"Simulizi ya Mwamwindi" |
![]() 『Mwananchi』2016年6月20日号 |
![]() 『Mwananchi』2016年6月23日号 |
![]() 『Mwananchi』2016年6月22日号 |
家族の痛恨はムワムウィンディの遺体が返されず、埋葬できなかったことだ。最年少の妻ゼナは現在、イリンガの町の孫に家にいるが、夫の服が返されたときは傷が開いたという。「イリンガにいる時はよく会いに行ったけど、ドドマに移されてからは会えなかった。それが今でも心の傷になっている」「夫には妻がたくさんいたけど、分け隔てなく愛してくれた。私はもう70歳を超えたけど、あのころはまだ若かった。こどもは3人いる」「あの事件の時、夫はヘヘ語で『この犬がおれを悩ませる』と言った」「夫の死後、村で孤独な生活だったけど、子どもたちも大きくなったし…」とゼナは語った。
この事件以降「へへ人は怖い」という風評が立った。ンジョンベ県出身(当時はイリンガ州)のベリンダ・マングーラはドドマ州のムプワプワで学んでいたが、「並み以上に残酷な人たちと差別されたし、学校でこの殺人事件に対する抗議デモも見た」という。イリンガのアモス・キサヴァは「この事件はイリンガだけでなく全国的な話題で、首長ムクワワと結び付けてヘヘ人は怖いとしたり、自分の父がルヴマ州で商売していたが支障が起こった」「本当はへへ人は怒りを抑えることはできるが、基本的に人間として許せない侮辱を避けようとするのだ」と言う。 ムクンググ村の人びとのなかではムワムウィンディ一家の存在感はあり、尊敬されているという。アマニに率いられた一家は村の学校の運営などの支援をしている。一家の隣人のラファエル・オウガスティノのよれば、ムワムウィンディ家の土地を配分した跡には多くの人たちが住み着いているという。末っ子であるラジャブ・サイドに言わせると、クレルーの遺体を警察署まで運んだ父の勇気、大胆さは驚嘆に値するという。ラジャブは村に住んでいるが、一家の紐帯は崩れていないという。父の家は壊され柱だけが残っているが、ここがムワムウィンディの家だったという標識になっている。同じ敷地内にアマニによって新しい家が建てられている。 アマニは1974年1月28日、ドドマに旅した。26歳の時であった。許可を取り、ドドマの刑務所裏の父の墓に参ったという。1971年のクレルー州知事とイリンガの富農たちとの紛争はなんだったのだろうかとアマニは問う。広大な畑を所有していた富農たちは「資本家」と呼ばれていた。「クレルー州知事は農民の支持を得ることができなかった。1950年から彼らは富農であり、刈り取り機、トラクター、車、店を持っていた。恐ろしい」とは富農ではなかったロバート・キスワガの言。「1954年に長老フィヴァオは飛行機を買おうとして植民地当局(!)から止められた」「もし、ムワムウィンディがクレルーを殺さなかったら、当局と富農たちの対立は続いていたかもしれない。なにせあの富農たちは、思うままに砂糖の値段を吊り上げる現在の商人のような力を持っていたから」。 1974年、事件のあった場所に記念碑が建てられた。イフンダ工業中学校の若者たちによって建てられたのだという。以前は花が飾られ、事件を説明する標識があった。しかし、今はもうすっかり風化して、足を停める人もいない。もう当時をする人たちもすっかり少なくなってきたので、修理をしてもらい、観光客寄せ、収入源にしたいという希望が村人たちにはある。 2年前(2014年)、ムワムウィンディ一家とクレルー一家が、イリンガ州CCM書記ハッサン・ムテンガの仲介で初めて会った。両家の代表として、当時イリンガ市長であったアマニとクレルーの長女であるエヴァとがイリンガ出会い、和解を誓った。その証として、クレルーの会社のPower Supply Co.がイリンガ州内で小規模発電事業を開始しているという。次回は両家からもっと多くが参加するという。
「ヘヘ人の伝統として怒りっぽいというのはある。後々の結果を考えずに怒りに任せて行動する」とヘヘの長老の一人、ジェラルド・マランガリアは語る。「しかし逆の評判もあり、へへ人は勇敢、誠実、秘密を守るというのがある。ニエレレ大統領の信頼を勝ち得たのはその誠実さだ。へへ人が『問題ない』と言ったら自分を犠牲にしても人を助ける。へへ人が仕事を求める場合は、給料の多寡ではなくて、尊敬を求めているのだ」。 1980年、アマニは仕事を辞め、妹弟の教育に力を注いだ。「親父は十分な商売を残してくれた」。結婚もした。その年、キロロ県のダバガから材木搬出の商売を始めた。またダラダラの商売をイリンガで最初に始めた青年となった。1988年、長老たちに押されてイリンガの市会議員(ムランデゲ区選出)となり、その後副市長、市長などを務めた。昨年の総選挙で引退しようと思ったが、周囲から説得され2020年まで最後のお務めにとなった。激しい選挙だったが、ムランデゲ区にはCCMも野党も対立候補を立てなかった。「まだわが一家は尊敬されていると感じた」とアマニは言う。 イリンガの副市長ジョセフ・リャタは次のように語った。「この殺人事件は現在の政治家・役人にも教訓となる。クレルー博士は農民たちを彼の指示に従わせようとし、ヘヘの伝統・慣習を学ぼうとはしなかった。知っていたら一人で畑に行ったりしなかっただろう。最大のミスはへへ人が墓を非常に大切に思っていることを知らなかったため、ムワムウィンディの怒りを増幅したのだろう」。アマニは「政府がウジャマーと自立の政策を強制するのではなく、国民に協力してもらう必要があった」「指導者であるなら、聞くことを学ぶ。指導する対象より多くを見なければ、困難に陥るだろう」「ウジャマーと自立政策の理念は当時はよかったし、間違ったのはそれを国民に理解してもらう方法だった」「協力を求めなければ、ヘヘ人は侮辱を嫌う。植民地当局の方が上手だったし、自治会の源は植民地当局が伝統的指導層を利用して協力させたことにある」と言う。 イスマニの農民はあの事件以来ウジャマーと自立の方針を追っていない。しかし、現在のイスマニの農業では飢餓が起こることがある。農民ベノ・チャヴラは600袋の収穫を得ても、利益として残るのは2袋、年によっては全くないと言う。気候の変化という理由を挙げているが、昨年は野生の果実や根菜を食べるほどの飢饉に襲われ、食糧の援助を受けたという。土地大臣ルクヴィを選出している選挙区なのにも関わらずである。「以前は飢饉のときはイスマニは多くの支援をしたのになぁ」とアマニは嘆く。イリンガ県長官のリチャード・カセセラも、イスマニはかつて本に書いてあったのとは違うことを認めている。 アマニが語る。「イスマニと呼ばれる地域はかつてはなく、へへ人とベナ人が農業のために開拓した土地である。皮肉な言い方だが、イリンガがイスマニによって造られたともいえる。イスマニの富農たちが見栄でイリンガの町に家を建てたのが、ムシンド、ムランデゲ、イソカ、キヘサ地区である。ザンビアの飢饉のときにイスマニ地区のトウモロコシを運ぶためにザンビアのトラックが停まっていたのがイソカ地区で、ザンビアの名前である。また国営製粉公社が製粉機を置いたのもイスマニだった。ひとえにイスマニのトウモロコシの生産力によるものだった。
長老キスワガは言う。「政治の宣言がイリンガ州の農業を震撼させた。イスマニのトウモロコシ生産力が大きいからだ。州知事が転勤してきて、協同組合で耕作させようとしたけど、わしらは嫌だった」。「森林は多く富農たちは小農たちを援助する気はあったけど、自分たちの畑を奪われるのは嫌だった」とアマニは語る。1971年12月22日の集会で、クレルーは富農たちに耕作を禁止した。ムワムウィンディはそれを無視して耕作を続けたわけだった。 ここで筆者は知識人の意見を聞く。「ムワリム・ニエレレの知恵」議長のペニナ・ムラマ教授は語る。「ウジャマー村の哲学は多くの国民が強制されたとしても、多くの土地で成功を収めた。ニエレレの目標は、物質ではなく、持てる者と持たざる者の溝を埋めるための開発を成功させるという哲学だった。共同のサービス、水、教育を多くの村が発展させ、成功させた。ダルエスサラーム大学の調査でもルヴマ州のリトア、マテテレカなどウジャマー村の成功例を挙げることができる。ニエレレは「部族」主義を嫌い、国の財産・天然資源を平等に分配しようとした。ムワムウィンディは自分の畑を没収されないために反対したのだ」と。 「深夜ドアがたたかれ、夫が連れていかれた時、私は泣くだけで何もできなかった」と長老オマリ・チュンガの妻カタリナは語った。「その時、子どもは3人いたし、広いトウモロコシの畑と、脱穀機やトラクターを持っていた。夫が連れていかれるとその機械の使い方を教えてもらていなかったので、夫が戻ってきた時には、機械は壊れ、畑は荒れていた」。チュングは18か月、ドドマの刑務所にぶちこまれていた。ほかの連行された農民の妻たちも同じように、夫が戻ってきた時には財産は失われていたという。当時の富農たちとして、クレスティノ・フィヴァオ、アブダラ・ムワングビ、ムゼー・ムニョンゴレという名前が挙げられる。彼らは森林を拓き、広大な畑を作り、国内だけではなくマラウィやザンビアまでトウモロコシを運んでいたのだ。 記者は現在のイリンガ県長官のリチャード・カセセラの意見も聞いた。「この地域を引っ張っていくために必要なのは、住民の意見を丁寧に聞くことだ。たとえその話が正しくはなくてもだ。ヘヘ人は(旧)首長と怒りをもつ男性を尊敬しており、彼らを侮辱したりすると相手にされなくなる」と(旧)首長制に対する懐旧と男性優先主義を指摘する。イスマニ郡の書記トーマス・ムインガも「自分は若いから、村の長老に呼ばれたら、その内容がわからなくても出かけて行き話を聞く。へりくだった態度が大切だ」と言う。イリンガ農村県の農業普及員ルーシー・ニャルによれば、イスマニにはかつての穀倉地帯の面影はなく、常に干ばつと飢饉に脅かされているから、農業に向かう動機づけが大切だと言う。 最後にムワムウィンディの家系がまとめられている。祖父のアブダラ・ムワムウィンディは第二次世界大戦に従軍した軍人だった。イリンガの町で尊敬され、アフリカ人として最初の裁判所の代言人、今日でいう弁護士となった。その息子であるサイドは500シリングの月給をもらう運転手であったが、1954年イスマニで農業を始めた。最初は3エーカーの畑だったが、トウモロコシがよく実り、毎年畑を広げていった。1970年には、168エーカーを所有するイリンガ州最大の大富農となっていた。その子どものアマニはイリンガ市長を2期務めた。
この話を最初に知ったのは吉田昌夫著『東アフリカ社会経済論』からである。そのなかの第Ⅴ章「タンザニアにおける『社会主義』的農村開発政策」にはこの事件が次のように述べられている。 「トウモロコシの穀倉地域であるイリンガ州でウジャマー村作戦が展開された。同州のイスマニ地域は、ある調査によれば、耕地の約40%が100エーカー以上の大規模農場となっており、人口の4%に当たる少数のアフリカ人『資本家』が地主となって、多数の農業労働者を雇用していた場所であった。政府はこの資本主義の萌芽を摘み取ろうとしたのであった。1971年末に農業労働者にウジャマー村をつくらせて、『資本家』的農業経営者から土地を収用し、再分配するために、積極的に働いていた州知事クレルー博士が、地主の1人に射殺されるという事件が起こった…」(P.197) 1967年2月のアルーシャ宣言から、タンザニア的社会主義ウジャマーは始まったのだが、それはニエレレの理想主義というか、かつてあったはずの植民地化以前の共同体的なもので、農民の自発的行動によるもので強制するものではないとされていた。しかし、1971年からのOperation Vijijini(村落化作戦)では、干ばつの多い農業後進地域であるドドマ州と、富農層を生み出していた穀倉地帯イリンガ州で、半強制的な作戦を実行したのだとする。1971年5月、ニエレレ大統領はイスマニ郡で新しく創設されたウジャマー村で、「イスマニの土地は、住民全体のものである」と宣言していたという。そしてクレルー以下の党官僚は精力的にウジャマー村化を推進した。ウジャマー社会主義推進の試金石がイスマニ郡であった吉田はという。 水場の少ない乾燥地域であったイスマニ地域が、1950年ころから新来者が森林を焼き畑に変えて開拓したトウモロコシ地帯に変わり、生産者協同組合が生まれ、富農層がリーダーシップを取った。しかし、イスマニの富農だけが富農層であったわけではない。タンザニアは白人の入植が少なく、アフリカ人の小農がコーヒー、ワタ、茶などの商品作物を栽培していた。ウジャマー村作戦で強制移住が行われることの少なかった地域は、キリマンジャロ州、ウエストレーク州(現在のカゲラ州)、アルーシャ州、シニャンガ州などが挙げられるが、それは商品作物栽培先進農業地域と重なり合う。キリマンジャロ州のキハンバという小農的労働集約的生産方式とイスマニの機械化近代農法との違いを指摘したうえで、果たして富農はどちらかなのか、キリマンジャロの富農たちはウジャマー政策に反対したのかを問う。 さらに吉田は、政治家・官僚の指導層のエスニック分類を援用し、チャガ人(キリマンジャロ州)、ハヤ人(カゲラ州)、パレ/サンバー人(キリマンジャロ州・タンガ州)が上位3位を占めることを指摘し、イスマニの富農たちは「政府と党の連合勢力の前につぶされた。彼らはエスニックな面でも、政府要人とつながっていなかったのである」(P.229)と述べている。クレル―がチャガ人出身の政治学博士であったこと、『Mwananchi』の記者が「へへ人性」に繰り返し触れていることが、事件の本質に迫るとは思えないが、背景の一つではあったかもしれない。
ウジャマー政策の時代だけではなく、タンザニアの土地所有の概念の変遷を見てみよう。池野旬の「タンザニアにおける土地政策の変遷」によれば、植民地期(ドイツ、英国)には慣習的とみなされている土地権が存在し、アフリカ人伝統権力を主とした間接支配が行われていた。独立後初期に伝統権力(首長制)などを廃止し、政府が管理することになったが、1965年からの村落入植計画が開始されたが、小さな地域にとどまった。1971年からのウジャマー村建設運動のなかで、強制的に住民は集村化させられ、1973年の農村土地法が発布される。その過程で地域による差はあるものの、慣習的な権利が奪われる場合も起きてきた。池野は「集村化は実質的に、慣習的な体制下で慣習的な権利の剥奪と土地の強制収用を意味した。その遂行にあたって、適切な法制上の手続きは実施されなかった。事前協議という植民地期の方針すら無視された」というシヴジの指摘を引用している(P.136)。 また植民者として来た英国人にとってはどうだったのだろうか。植民地時代にイリンガ州に来て住み着き、現在もなお居残っている英国人夫妻(Fox)の記憶である。夫(ゲオフ)は1938年、妻(ヴィッキー)は1939年に同じイングランドの町に生まれている。ゲオフは幼児のころの7年間インドにいた。また離婚した母親の再婚相手の任地ウガンダに12歳のころ休暇で遊んだ経験があり、海外特にアフリカ志向が強かったらしい。1959年12月、ブルックボンドの社員となったゲオフはイリンガに赴任した。イリンガ県ムフィンディにブルックボンドの茶農園があったのである。 この夫妻の歴史については別の機会に譲るとして、彼らの伝記に出てくるイリンガにおけるウジャマーの話を見てみよう。1967年2月のアルーシャ宣言に触発され、1969年、ムフィンディのルワンガ(Lwanga)の農民ルーベン・ムピルカをリーダーとして、自発的なウジャマー村建設運動が始まったという。「ニエレレの呼びかけに応えよう、彼は誰よりも働く、信用しよう」と。近所に住むようにして助け合う。種子の融通、学校、診療所の建設というウジャマー村の建設を始めた。1972年4月にルワンガ・ウジャマー協同組合会社が登録され、25人の組合員と5つの委員会を持つウジャマー村が動き出した。自家菜園以外に週2日共同農場を交錯し、トウモロコシの収穫も増加し、食糧倉庫、小学校、診療所、日用雑貨を扱う小売店も建設された。分裂した氏族単位の社会から、平和な国民国家に移行したのがニエレレの最大の功績であるという。 もちろん、すべてが順調に行ったわけではない。集村化の遅れ、都市化の進行に、いら立ちを覚えたニエレレは、1973年11月、ウジャマー村への強制移住推進政策を取った。萌芽期のタンザニアの官僚組織がうまく仕切れず、折からの第1次オイルショック(1973年)や、1973~74年の干ばつにぶつかり、挫折していくことになる。うまく回転していたルワンガのウジャマー村も、自発的に始めた村人たちと後から強制されて移住してきた人たちの不協和音で大変だったらしい。もちろん、村人たちの本音と言いつつ、親しいとはいえ第三者であるヨーロッパ人(英国人、ドイツ人)の観察であるから、要注意ではあるが。 このクレルー事件は歴史の中でどう位置づけられるのだろうか。ニエレレの思想・政治の評価をする際に、ウジャマー思想とその政策の実施と失敗は根幹になるだろうと思う。その後のタンザニアの農業生産の停滞と成長、現在の食糧不足も考えてしまう。またマグフリを「ニエレレの再来」ともてはやす動きがあるなかで、ドドマへの首都移転の流れを眺めている。ここ数年、広大で余裕があったタンザニアの土地をめぐる農耕民と牧畜民との紛争、外国企業の投資による土地収奪、それをめぐる腐敗、さらには自然(野生動物)保護と周辺住民の利害の対立など、土地をめぐる紛争が目立ち、殺し合いにまで発展することがある。マグフリ政権で土地大臣に任命され、いま盛んに紛争解決に努めているルクヴィ大臣がイスマニ選挙区選出の議員であることも、何らかの因果を感じさせる。「農業で百万長者に」という新聞の特集記事を見てため息をついてしまう。 ☆参照文献☆ ・『Mwananchi』2016年6月20日~27日、8月6日号 ・吉田昌夫『東アフリカ社会経済論―タンザニアを中心として』(古今書院、1997年) ・池野旬「タンザニアにおける土地政策の変遷―慣習的土地権に着目して」 武内進一編『アフリカ土地政策史』(アジア経済研究所、2015年) ・Evelyn Voigt『Flying Snakes and Green Turtles-Tanzania up Close』(General Store Publishing House,2013) (2016年9月1日) |
品目 | 単位 | 価格 |
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バス | 1乗り | 400~750 |
新聞(朝刊英字紙) | 1部 | 1,000 |
ガソリン | 1リットル | 1,905 |
米 | 1kg | 2,000 |
たまねぎ | 1kg | 2,000 |
砂糖 | 1kg | 2,000 |
ウンガ | 1kg | 1,200 |
牛肉(ステーキ) | 1kg | 9,000 |
卵 | トレイ | 9,000 |
パン | 1斤 | 1,700 |